天光院
東京都港区芝公園1-3-16
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天光院は天正12年(1584)、増上寺十一世雲誉円也上人によって、現在地芝山内に創建された。円也の出身地は筑後とも周防とも云われるが、そこから諸国修行の旅に出たが、請われて伊勢白子の悟真寺に住職となった。しかし、関東に出、増上寺九世貞把のもとに学び、さらに、十世存貞の弟子となった。円也は存貞の住職した鎌倉岩瀬の大長寺の二世となり、存貞が四年後増上寺を辞した跡を受けて増上寺十一世となった。
天正八年(1580)片山法台寺にいた源誉存応(観智国師)も来て円也から五重相伝を受け弟子という関係となった。天正十年十一月、増上寺は火災で焼失。円也は復興に着手し、同十二年(1584)八月再興、現在の天光院の開基となり、隠棲し、増上寺を円也に譲った。実際上の復興は十二誉存応の働きによって完成した。同十八年、徳川家康との関係が出来、慶長十年(1605)、将軍家の菩提寺となって、本堂、三門、経蔵など大伽藍も復興した。
この復興を見、円也は、同十二年9月5日、念誉春貞に天光院を譲って入寂した。天光院には浄土宗宗宝指定の存応の画像が伝わっている。此は存応が入寂の2年前、天光院二世春貞に授与したものである。構図は土佐系、描法は狩野派画家。この形式の画像は頂相といい、禅系に多い。今「伝衣式(でんねしき)」(住職交替のとき伝統を引き継ぐ式、その席に此の図を掲げる、先師の面前で衣鉢を継ぐ意味)に使用される。そのような使用を意識してか、存応は慶長十五年七月十九日に「普光観智国師」の国師号を賜った時の勅書を賛して、春貞に授けたと考えられる。賛中、「元和四年十月十八日源誉(花押)七十五才書之。」とあるので、存応生年がわかり、且つ、自筆という良質の史料である。
現在、実質的増上寺開山というべき存応のこの画像の前で、歴代増上寺住職の伝衣式には使用されている。
存応国師の画像は天光院にとって象徴的な名刹の証であるが、さらに、三世吟良上人の寛永三年(1626)に徳川御三家の尾張・紀伊・水戸・家の増上寺参拝の休息所となったことは寺、寺格を山内筆頭のものとした。その後紀伊・水戸家は他に移り、尾張家のみの休息所となった。嘉永三年(1850)、江戸の大火で、焼失、尾張家から花木邸を天光院に移築、嘉永五年から移築がされ、翌六年三月には完成した。
先年来、伊坂道子氏等の尾張家文書、図面からの研究等で、天光院移築前の尾張藩家屋の所在地、市ヶ谷の発掘の研究から、当該家屋は、その地に分解保管されていたものの移築であったことがほぼ判明した。ほぼというのは、過去帳の「花木邸」という文字に接しないからである。しかし、図面は現在の天光院・威徳院の関係や様子によく合うので、間違いはない。
学制が近代化の一歩を踏み出た時に、浄土宗でも、その学制として浄土宗教校の本校の所在地として天光院が明治22~23年に使用された。それらは、各地に発展し、大正大学、仏教大学、芝学園、東山学園、上宮学園、東海学園、鎮西学園などとなって、現在30校、約六万。
天光院21世、真野正順、 現22世、真野龍海は大正大学学長になり、また、檀家有縁の安居香山氏も同学長を勤め、合わせて三学長が天光院に眠ることになるのもなにかの縁であろう。